4)合唱(チリ編)

 チリで最初に入った学校では、コーラスは7年生(日本の中学1年生)からしか入れなかった。
いろんな催し物のたびに出てきては歌うお姉様がた(ミッションスクールで、女の子だけだった)が
うらやましくて仕方がなかった。6年生になる時、市内の別の学校へ転校した。そこでは5年生から
コーラスに入れるという。音楽の先生が「コーラスやりたい人は名乗り出て」と言ってきた。
即座に入ることに決めた。これが私の合唱人生の始まりである。男女一緒の三部合唱だったが、
最初にパートを決めるテストを受けた。「あなた、全部出るから、どのパート歌ってもいいわよ。
でも、一番下が人数不足だから、そこへ入ってもらえると助かるわ」と先生に言われた。
これが、アルト人生の始まりである。

 チリではあまり楽譜を読む教育をしない。一応学校でちょっとは教えるけれど、
日本ほどきちんとやっておらず、楽譜が読めるのはピアノなどの楽器をやっている人くらいである。
うちのクラスでは私しか読めなかったようだ。そんなわけで、コーラスをやるといっても、
楽譜が配られることはなく、音楽の先生が全部のパートを歌って聴かせ、生徒たちは耳で覚える
というやり方だった。でも、これでちゃんとコーラスができるのだから、たいしたものである。
卒業式には毎年必ず歌った。その他にも独立記念日などの学校の催しで歌ったことがある。
一度、大統領の前で歌った。サンチャゴ中の学校から数名ずつコーラスのメンバーが出て
一緒に歌うという企画だった。私は通路から2人目だったが、その通路を大統領が通り、
私の隣の子は彼と握手をした。ちょっとうらやましかった。とにかく生で大統領が見られたのは
合唱のおかげである。

                         

5)合唱(高校編)

 中学3年の終わりにチリから帰国し、高校へ入学。最初は卓球部に入るつもりで見学に行ったが、
なぜか卓球部は音楽講堂と呼ばれる部屋の隣で練習をしていた。見学をしていると、
隣からコーラス部の歌声が聞こえてくる。見学後、ついふらふらとそちらへ行ってしまい、
そのまま入部してしまった。卓球部の人たちからはその後「何でうちに入ってくれないの」
と何度も言われ、ちょっと気まずかった。

 高校の1〜2年の時は音楽の時間、コーラス部、そして課内活動のコーラス部と、
合唱をする機会が多かった。コーラス部ではアルトだったので、音楽の時間や課内活動では
気分を変えるためにソプラノやメゾを歌った。当時は(若かったので)ハイツェーと呼ばれる
高いドの音まで出たので、そういうこともできたのだ。「風」(『人は誰もただ一人 旅に出て〜』)
という、子供の頃とても好きだった曲が合唱曲に編曲されていて、よく歌う機会があったので
嬉しかった。コーラス部の仲間とは、練習の合間によくいろんな歌(合唱以外も)を歌った。
ユーミンの「ベルベット・イースター」や「ひこうき雲」「卒業写真」はそんな中で覚えた曲で、
とてもなつかしい。

 うちの高校では9月に白珠祭(はくじゅさい)と呼ばれる学園祭があり、たいていの人は2年の秋、
ここでの舞台などを最後に部活をやめて受験勉強にそなえる。だが、私は大胆にも3年生の
白珠祭までしっかり練習に出た。「高校は大学受験のためにあるわけじゃない」という持論を
通すためである。その代り、引退後は死ぬほど勉強した。受験に失敗して
「ほーら、いわんこっちゃない」などと言われてはたまらないからである。

 うちのコーラス部は指揮者以外は女性ばかりだったので、もっぱら女性三部コーラスを
やっていたが、2年生になる春、入学式だか新歓コンサートだかで、どうしても混声四部で
歌いたいという話になった。そこで、クラスメートの男性を誘ってみたら、芋づる式に
何人も「釣れて」しまった。彼らはその時はただのお手伝いということだったが、2年の秋に
それぞれの部活を引退した後、正式にコーラス部に入ってくれた。皆いい声の持ち主で、
一緒に歌うのはとても楽しかった。それにしても、3年のときは総勢53名で、そのうち男性が
たったの7名。それでちゃんとステージをこなしていたのだから…。彼らがすごかったのか、
私たち女声が弱かったのか。

                         

6)合唱(大学編)

 大学では「今度こそ違う部に入ろう」と思った。スキー部なんかいいかな、などと思っていた。
ところが、ある朝、教室で授業が始まるのを待っていると、合唱団の人たちが突然入ってきて、
ロシア民謡を歌って宣伝をしていった。これがとてもきれいだった。で、急にやっぱり合唱が
やりたくなってしまったので、あわてて練習場を探した。最初はなかなか見つからず、
あきらめかけた。(そういえば、いまだに練習場を探す夢を見るなあ。)でもやっぱりあきらめられず、
次の週また行ってみた。そこでやっと練習場を見つけ、入部することができた。
団の正式名称は「東京外国語大学混声合唱団コール・ソレイユ」。どうでもいいけど、
やたらと長い。高校の合唱団と違って驚いたのは、練習は座って歌ってもいいということ。
ただし、姿勢などには厳しい。また、楽譜を忘れたり粗末に扱ったりすると
指揮者のS先生に怒鳴られた。

 その年歌った曲の中にあったのが木下牧子作曲の合唱組曲「方舟」。ソレイユ初めての
委嘱作品だということだった。「水底吹笛」「木馬」「夏のおもひに」「方舟」という4曲からなる組曲で、
どれも素晴らしい歌だったが、特に、最後の「方舟」に対しては、皆特別な感情を抱いていた。
夏合宿で、他の曲がうまく歌えたとき、S先生に「よーし、ごほうびに『方舟』を歌わせてあげよう」
と言われた。それまで座って歌っていた私たちは一斉に立ち上がった。この曲はアルトでも高音が
出てくるし、パワフルな曲なので立たないと歌えないというのもあるが、それ以上に、
なにか「神聖」と言っても過言ではないくらいの、不思議な感情を抱いていたからだ、と思う。
それまで知られざる弱小合唱団だったソレイユだが、この年の定期演奏会では大きな拍手をもらった。
定演の後のレセプションで、演奏会の成功に興奮したS先生が立ち上がって叫んだ。
「みんな、これからもオレについてこい!」。「方舟」との出会いと、この時先生の叫んだ言葉が、
その後の私の人生を変えることになる。そして、この時の演奏のテープは、その後長い間私の中で
「もし火事になったら持って逃げるもの」の筆頭を飾っていた。もちろん、
「方舟」は今でも一番好きな合唱曲である。