(11)お月様の大きさ
お月様の大きさ、普通の人はどのくらいに見えているのだろう。
もちろん、本当はとっても大きいのだけれど、目で見たものを頭の中で
イメージ化するときの大きさというものがあるはずだ。
我が家では、父と妹と私は、だいたいハンドボールからサッカーボールくらいの
大きさに見えていることが判明。弟は「ピンポン玉より小さい」。「え〜、そんな」と言うと、
「だって、5円玉の穴に入るんだよ、お月様。ピンポン玉でも大きいくらいだよ」。
それに対して母は「みんな絶対おかしい」と主張。
母は両手をいっぱいに広げて「こ〜〜〜のくらい」と言う。
「だって、昔から、♪ぼ〜んのような月が♪って言うじゃないのよ」。
それは格言でも言い伝えでもなくて、ただの歌なんだけどなあ。
母は満月が大好きである。満月とその前後は幸せそうに空を見上げて、
「お月様、大きいねえ」とにこにこしている。あるとき、雑誌に
「子供はなぜ母親の顔を画用紙いっぱいに描くのか」ということが書いてあった。
子供は母親を見るとき、その顔しか目に入ってない。母親の顔をじっと見ているときは、
まわりの景色や何かは、完全に視界の外にあるのだ。存在しないに等しい。
大きくなるにつれて、母親の占める重要度は減っていき、画用紙の中の母親も
だんだん小さくなっていく。そういうことらしい。
これを読んで、私ははたと思いついた。お月様の大好きな母は、
母親を見つめる子供のように、お月様だけをじっと見ているから大きく見えるのではないだろうか。
きっとそうに違いない。
(12)母の親友
母には高校時代からの親友がいる。男性にも使える名前の女性で、性格もさばさばした、
男性的な人だ。字も男性みたいである。
彼女は年中旅行しては、母に絵葉書をくれる。それを見るたび、
父は「本当は男じゃないのか」とヤキモチを焼いていた。
ある日、彼女がうちへ遊びにくることになった。残念ながら、私は仕事があって、
会えなかった。うちへ帰ると、早い時間なのに、なぜか父がいる。
父が風邪をひいて会社を休むことなんてほとんどなかったので、とても心配になった。
「どうしたの」と父に聞いたら、父はちょっと照れ臭そうに言った。
「あれは、男だよ。あんなのは女じゃない」。確かめるためにわざわざ会社を休んだらしい。
(13)聖人の日
スペイン語圏の人は、キリスト教の聖人の名前を子供につける。また、
今日は聖ビクトルの日、明日は聖アルフレドの日、のように、毎日が誰か聖人の記念日で、
カレンダーや手帳などにもそれが載っている。
ちょうど日本で大安とか仏滅などと書いてあるのと同じような感じだ。
そして、自分と同じ名前の聖人の日は、誕生日と同じくらい盛大に祝う。
国によっては、本人の誕生日にあたる聖人の名前をつけるので、
聖人の日イコール誕生日だったりもするが。
さて、日本でもキリスト教徒になると、洗礼のときに、「洗礼名」というのをつけてもらう。
これがやはり、聖人の名前だ。父は大学生のときに洗礼を受けた。
母は結婚が決まってから父の勧めで洗礼を受けた。洗礼名は自分で選べるので、
母は「マリアにしたいわ」と言ったが、父が別の名前を強く勧めるので、しぶしぶそれにした。
父は本名と洗礼名の頭文字が同じだ。私と妹も生まれてすぐ洗礼を受けたが、
やはり二人ともそれぞれ本名と洗礼名の頭文字が同じだ。だが、
母だけは本名と洗礼名の頭文字が一致していなかったので、
「私だけ仲間はずれ」とよくぼやいていた。
「マリアにしたかったのに。マリアなら頭文字が一緒だったのに。
どうしてあんなに強固に今の名前を勧めたのかしら」。
そのうち、私達は父の仕事の都合でチリに住むことになった。
チリの手帳で聖人の日を調べていた私は、あることを発見した。
母の「聖人の日」は、父の誕生日だったのである。ふふふふ、なあるほど。