ある朝、一本の...
(1)
1990年10月のある日、午前8時。電話が鳴った。
まだ寝ぼけたまま受話器を取った私の耳に飛び込んできたのは、「おはようございます。
私は裁判所の通訳をしているKという者ですが、中西さん、法廷通訳やりませんか」
という言葉だった。わけがわからなくて目を白黒させている私におかまいなく、Kさんは続けた。
「今、法廷通訳が足りなくって。私も大変なんです。手伝ってくれませんか」。
なにしろまったく知らない人からの突然の電話である。
しかもいきなり要件から切り出すような人で、
私の寝ぼけた頭には彼女のスペイン語が滝のようにどどどどっと流れ込んでくるが、
事態が今ひとつ飲み込めない。
「はあ?裁判所?」裁判所で何するって?通訳って言った?何の事件だろ?
Kさんは日系のブラジル人で、スペイン語の法廷通訳もやっているが、
事件数が増えてきて手に負えなくなったらしい。本業が鍼灸師なのだが、
自分のクリニックに来たお客さんに「誰かいい人知らない?」と聞いたところ、
それがたまたま私の友人(チリ人のスペイン語講師)で、
「ああ、それなら彼女がいいわよ」と私の連絡先を教えてもらったという。
どうやら1回きりの仕事ではなさそうだ。
「私はスペイン協会というところで教えてるんですが」と言ってみた。
「その仕事をするとなると授業はやめないといけないのかしら」。
「あ、大丈夫、できる時にやればいいから」とKさんが答えたので、ちょっと安心した。
でも、まだどういう仕事なんだかよくわからない。「とにかく1度会いませんか」
とKさんが言うので、話を聞いてみることに決めた。会う場所は東京地裁のロビーである。
(2)
裁判所に行くのは初めてだった。道に迷ってガードマン風の人に尋ねたら、
私が背にしている建物が裁判所で、ちょっと笑われた。やっと東京地裁の建物に入り、
だだっ広い1階ロビーのすみっこでキョロキョロしていると、Kさんが現れた。
「さ、行くわよ」と歩きだす彼女。どこへ行くのかと思ったら、
いきなり裁判官のところへ連れて行かれた。
え?今日って、面接だったの?知らなかったよ。
裁判官には気に入ってもらえたようだった。
その後、書記官室に連れて行かれた。なんかそのへんの紙切れを出されて、
「ここに簡単な履歴を書いていただけますか」と言われた。
わかってたらちゃんと履歴書を持ってきたのになあ。
Kさんはちゃっちゃと手際よくあちこちに私を紹介してまわった。
私はわけもわからないまま、ひたすら彼女について歩き、
気づいたら東京高裁の仕事をもらっていた。